知恵の樹

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対話をデザインする(デヴィッド・ボーム「ダイアローグ」)

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人はなぜ不毛な対立をしてしまうのか?

 

ミヒャエル・エンデの「モモ」の中で、モモは不思議な能力を持った少女として描かれています。モモの前には問題を抱えた大人たちが次々と訪れ、モモに自分が抱えている問題を説明します。モモは、その問題に何もアドバイスをしないのですが、モモに話をすると、なぜか大人たちの問題は解決してしまっているのです。

 

ある時、二人の村人がモモの所にやってきます。この二人はお互いを死ぬほど憎んでいるのですが、モモの前でお互いに対する恨み・憎しみを話していくうちに、実はとんでもなく些細なことがきっかけで憎しみが増大してしまっていたということに気づきます。

 

結局、この二人はあまりにも馬鹿げたことでお互いを憎しみあっていた不条理に気づき、最後は肩を組んで帰っていきます。その間、モモは一言も発していません。

 

もう一つ、本書から例を引用します。

 

ボームは精神障害のある少女を扱った精神科医の話を取り上げています。この少女は誰とも話そうとしなかったのですが、ある時感情を爆発させて自分が話さないのは「おじさんが嫌いだから」と精神科医に言います。精神科医はどれくらいの間、自分を嫌うつもりか?と聞き、少女は「一生」と答えます。精神科医は「一生ってどれくらい?」と聞くのですが、それを聞いた少女は笑い出し自分の考えが不条理だったことに気づきます。対話を通じて、一生人を嫌うなんてことはありえない、ということに少女は気づきました。

 

 

不条理に気づく技術

人の意見には必ず前提があります。上の少女の例では「人を嫌う感情は永遠だ」という前提で精神科医を「嫌い」と言うわけですが、その前提がそもそも正しくないという認識を得た瞬間に、「今この人を嫌っている自分の気持ちは強固なものではない」という気づきを得て、少女は笑ってしまうわけです。

 

自分達が拠って立っている前提が正しいのかどうか。そうした問いを持つために「ダイアローグ」を行うという方法がある。ボームはダイアローグにおいて「人は自分の意見を目の前に掲げてみてそれを見る」と言っています。評価するわけでも分析するわけでもなく、ありのまま「見る」

 

イメージとしては、ダイアローグを行う集団の輪の中に自分の意見をポンっと投げ入れてみる感じでしょうか。投げ入れられた自分の意見は、一旦自分から離れ、自分はそれを客観的に眺めます。輪の中にいる他の人もその意見を不思議そうに眺めます。

 

このプロセスの中で、自分や他人の意見が一体どのような前提に基づいているのか。それは確固とした必要性から生まれてきた意見なのかどうかが認識することができるようになる。不条理なものは不条理として認識する。ダイアローグというのは、人との関係性を利用して、個人が持っている意見の構造を明確にする技術である。僕はそんな風に思います。

 

 

 

対話を行う関係性をいかに作るか

 

企業変革の仕事をしていると、まったくもって不条理な理由で企業が変われない状況に直面します。異なる部門の意見が対立し物事が進まないのです。

 

何度会議を開催しても、常に議論は迷走し結論が出ない。一部の偉い人しか発言しないのに、その人たちの間で意見が摺りあわない。他の大半の人たちは議論の場に参加することにさえ疲れ果て、諦め、主体的な意思決定と実行を放棄しています。

 

こんな組織が厳しい競争環境を勝ち残れるわけがない。

 

組織としての強みを生かし何事かを成し遂げるのであれば、適切で効果的なダイアローグが発生する仕組みを風土として持つことを考える。そのために、どのような物理的・制度的な仕掛けが必要かを考える。マネジメントがそういうことに気を配る組織は、長い目で見れば極めて強固な競争優位の源泉を持つことになる。

 

そうしたダイアローグをデザインする人が必要なのではないか?何が効果的なダイアローグなのかわからない組織に対して、誰がいつどこでどのようにダイアローグに参加し、どのように勧めていくのかを一緒になってアドバイスしていく。そういうデザイナーってどのように形成されていくのか。そんなことを考えさせられる一冊でした。