知恵の樹

オーガニックな成長をあなたに

知性を頼りに未来を考える(ジャック・アタリ「21世紀の歴史」)

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市場経済の行き着く末

 

これは久しぶりに強烈に面白い本でした。ここで書かれている「起こりうる未来の社会像」、私は相当すんなりと腹落ちしました。もちろん、将来のことなので当たるか外れるかは誰にもわかりませんが、歴史の大局観を持っているかどうかは個人にも社会にもポジティブな影響を及ぼすと強く思います。

 

ジャック・アタリは本の中でいくつもの重要な指摘をしているのですが、その中でまず私の心を掴んだのは市場経済の行き着く末に関する議論です。

 

グローバル化の進展によって市場の力がもう間もなく世界の隅々まで到達します。その結果、社会は豊かになりますが、同時に不安定になるというのがジャック・アタリの主張です。

先進国の状況を見ていると、確かにジャック・アタリが言う出現する未来の萌芽は見えつつあります。20世紀は国民国家の時代であり、多くの公共サービスが中央集権的に提供されてきましたが、市場経済の力は医療・教育・安全・自治などの政府サービスを民営化する方向に仕向けます

理由は、政府は非効率であり市場に任せた方が効率的な公共サービスが提供できるというのが現代のドグマであるということと、市場主義に覆われた社会においては政府は大きな公共サービスを提供するに足る税収を得ることができないからです。

 

その結果、社会保障や年金などは保険会社などの企業が管理することとなります。そして、こうした企業は収益最大化のために個人情報を徹底的に収集し管理・分析する方向に向かいます。

その頃には、体にマイクロデバイスを埋め込み、健康状態のパラメーターをリモートでモニターする仕組みができており、こうした生理的な個人情報から行動情報、考え方などありとあらゆる個人情報がデータとして管理・分析される「超管理社会」が出現するだろうとジャック・アタリは言います。

 

一方、国家の社会保障機能が弱体化した結果、最低限の生活基盤が脅かされる層が増大し、世界各地で暴動や海賊行為などが頻発すると本書では予想されています。

 

 

ビックデータの行く末

 

ビックデータが世の中的にブームです。私は巷で言われているほどビックデータには価値は無いと思っていたのですが、ジャック・アタリの話を読んでようやくこの領域の行く末が何なのかがわかりました。

 

今から10年前、私は大学院でデータ・マイニングの研究室に所属していました。当時から、インターネットの爆発的な伸びやIPv6によって世の中には分析可能なデジタルデータがあふれ、それらを分析する仕事の重要度が高まると言われていました。

 

私はそれは至極最もな将来像だと感じ、そうしたビックデータを分析する手法を身につけようと大学院の研究室の門を叩きました。しかし、実際にデータをもらい分析をしてみると、どんな高度な分析手法を使ったとしても大した分析結果が出ないのです。当然、駆けだしの学徒の分析だから面白い結果が出るわけ無いのですが、周りに居るプロの分析結果を見ても、驚くような分析結果に出会うことは皆無でした。

 

"Garbage in, garbage out"と言いますが、意味の無いデータであっても「とにかく大量に突っ込めば何か面白い結果が出る」というのは幻想なんではないか?鋭い仮説に基づいて、分析者が意図して選択したデータを分析した方が面白い結果が出るのではないか?

10年前、ビックデータに関して私はそう結論付けました。そして、分析者のキャリアを突き進むことを止めました。

 

10年経った今でも、私はマーケティングの分野で行われているビックデータの分析には懐疑的です。Amazonのレコメンデーションの仕組みはすばらしいと思いますが、今まで使われていなかったデータを分析して、驚くような結果が出てくることは稀なんではないかと思っています。

 

しかし、ジャック・アタリが提示する未来の社会を前提とすると、ビックデータ分析が極めて重要な意味を持つというのは容易に想像がつきます。すなわち、生体センサーの情報と金融リスクの分析が結合されれば、そこには当然、大量のデータを自動で分析する仕組みが必要になると思うのです。

ビックデータの分析は2060年までの個人に「フラグを立てる」基本技術として重要な位置を占めるのだろうと思います。マーケティングの新手法というよりは個人と社会を管理するためのツール。それが良いか悪いかは判断が分かれますが、これは社会インフラの一部として一過性のブームには終わらず産業として拡大することは間違いなさそうです。

 

 

「右肩上がり」の時代から「右肩下がり」の時代になったのではない

 

さて、市場経済の進展にしろ超管理社会の到来にしろ、ジャック・アタリが示す将来像はあまり個人をわくわくさせるものではありません。しかし同時に彼は2060年頃に「超民主主義社会」というものが訪れると予想します。

 

正直、この本の中で「超民主主義」が何なのかということは明確にはわかりません。前半の暗い将来像の予測があまりにも明瞭に思考に迫ってきたので、「超民主主義」社会像の曖昧さには個人的には強い不安を感じました。

「愛他主義者・ユニバーサリズムの信者が世界的に力を持ち」、「収益を最終目標としない調和重視企業で働く」トランスヒューマンが社会の最前線に現れると言うのですが、そうした人がどこから現れるのか、具体的にどのような人たちでどれくらいの規模がいるのか、多くの紙面を割いて説明されることはありません。

 

そういう意味で、私達は未来に楽観的にはなれません。しかし、彼が言わんとしている社会像は日本で生活をする私にはぴんと来るところがあります。

 人口の減少局面に突入していることもあり、日本は「右肩上がりの成長」を終えて「右から下がりの衰退」局面に入ったのだという人が居ます。私はこれは間違っていると思います。日本はこれから右肩に「上がる」のでも「下がる」のでも無く、「循環する」社会の模索に入ったのだと思います。

 

資源の枯渇や、希少資源の取り合いによる紛争を考える必要が無い社会。この仕組みは賢く、この体制で社会・経済を回せば千年でも1万年でも同じ生活が続くだろう(だから、その枠内でポジティブな革新を進めよう)と誰もが思えるような社会。青臭く言えば、そういう社会体制の模索が一部で始まっている。

 

市場経済の波にのまれ、グローバル社会への不適合を起こしているのが今の日本の姿ではありますが、それを超えた後に訪れる安定した社会をどう作るのか、その仕込みが様々な場所で静かに進んでいるのだと思います。

 

私は、この本を読んで自分が薄々感じている未来の社会像と、そこに向かって自分が果たさなければならない役割が何なのかを感じることができました。

世の中の構造をシンプルに読み説き、そこから考えられる「出現する未来」を丁寧に見せること。これこそが知性の使い道だと私は思います。現代の知性の巨人であるジャック・アタリのこの本は、社会と未来を考える人すべてに何らかの示唆をもたらすと思います。