知恵の樹

オーガニックな成長をあなたに

大人になる、ということ(内田樹「街場の文体論」)

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文を書く人の心構え

 

内田樹さんは僕にとっては「正しい年配者」のお手本に映ります。

 

色々な話題について話をしていますが、結局のところ「若い人よ、あなたは御存じないかもしれないがより良く生きるということはこういうことなのだ」ということを様々な観点から繰り返し繰り返し説いているように思うのです。年配者の知恵と経験の観点から。

 

もちろん、人ですから意見の相違はあります。内田さんの社会制度に対するスタンスの中には僕は共感できないものもあります。しかし、そういう表面的な意見の相違があったとしても、僕はその異なる意見のなかから何らかを学びとりたいという気分になる。

 

 

なぜ漱石の言葉は自分に届いたのか

 

中学の時にやたらと漱石にはまった時期がありました。最初は「こころ」だったのですが、漱石の小説を繰り返し繰り返しなめるように読んだ時期がありました。

 

内田さんの文章を読んでなるほど、と思ったのですが、中学時代の僕はおそらく漱石の文章の中に「未来のお若い方、大人になるとはこういうことですよ」というメッセージを探し当てたんだと思います。

 

内田さんは漱石の「虞美人草」を極めて「教訓的」な小説だと言います。小説に登場する3人の青年の生きざまは教育の生かし方の類型だというのです。すなわち、自己利益のために教育を排他的に使おうとする(小野君)か、ディレッタント的に浪費しようとする(甲野君)か、社会と他社のために使うことにコミットしている(宗近君)か。

その上で漱石は若い日本人に向かって、君たちが教育を受けたのは、「託された仕事」があるからである。それは贈与されたものなのだから、君たちには反対給付義務がある。それを社会に還元しなければならない。漱石はそう言ったのだ、と言います。

 

僕にはこの解釈が非常にしっくりきました。受験競争の真っただ中にあった青年期。自分は何のために学ぶのか、今の苦しい勉学の時期は人生においてどのような意味があるのか。そんなことがわからず苦しんでいた時期に、僕は漱石の中に「明治の年配者からのメッセージ」を見てとったのだと思います。

 

 

誰に何を伝えたいのか

 

文章は書き手が「何を・誰に伝えたいか」を明確にしないと伝わりません。

 

内田さんはレヴィナスを初めて読んだ時に、中身は難解でコンテキストはわからず内容はほとんど理解できなかったが、書き手の「何かを伝えようとする姿勢」は強烈に感じ取ったと言っています。その様は、群衆の中でなぜか外国人が自分を見据えてつかつかと近寄って来て、ほとんど襟首を掴まれ、「頼む、わかれ、わかってくれ」と言われた気がした、と言っています。

 

社会人になって今年で丸10年が経ちました。この10年、日本を代表するブランドの会社で働き、海外でビジネスをする経験に恵まれ、さらに転職してからは、業界横断的に経営戦略を考える仕事をする機会に恵まれました。そうした経験はすべて社会からの「贈与」なのかもしれない。「贈与」を受けたものには反対給付義務が生じ、その経験を社会へと還元していくことが求められるのかもしれない。そんなことを考え始めるようになりました。

 

一つ一つの経験の密度をどのように濃くしていくのか。自分が受けた経験から何を示唆として抽出するのか。抽出した示唆を如何に社会のために使っていくのか。

 

社会にとって重要なことを自分の経験の中からどれだけ紡ぎだし、それを理情を尽くして伝えて行く。そういう生き方を意識しないとならない。文章を無為に書いてはいけない。伝えたいものを伝えたい人にしっかり伝えられるように情理を尽くして語らなければならない。

 

そんな書くことと生きることに関する基本姿勢を考えされた本でした。